人と動物の関係学

[2007年7月] ペット・ロス #00

ペット・ロス

ペット・ロスへの誤解

 ペット・ロスという言葉ほど誤解されているものはありません。世間一般ではこれを、あたかも病名のように扱っていることがあるようですが、ペット・ロスは決して病気ではありません。この英語を直訳すると「ペットの喪失体験」ということになります。つまりペット・ロスは体験であり、それの結果として抑うつ的になったり、不眠症になったりすることはあっても、それ自体を患うことはあり得ないのです。

 もう一つ指摘しなければならないのは、ペット・ロスが特殊な状況ではないという点です。以前メディアでは「ペット・ロス症候群」という言葉が用いられていたことがありました。これはペット・ロスがとてもユニークな、他の悲惨な体験とは異なるものである、というイメージを社会に与えてしまいます。とても残念なことです。動物をかわいがっている人々は、やはり「どこか変」、「他者と違う」と人々に思わせてしまうかもしれません。

 ですが、ペット・ロスは特別な喪失体験ではありません。私たちは皆、家族や知人、友人と死別する、という体験を重ねながら生きています。その中で、愛する動物との別れをも体験することがありますが、どのような場合でも、このような喪失体験にともなう人間の心の動きは同じものなのです。失ったものによってその度合、深刻さ、長さ等々は変わるのでしょうが、死別を否定したり、何かに対して怒りを感じたりした後にやってくる受容に至るまで、死別に直面した人の心のプロセスは、同じ道程を歩んで行くのです。

 故に、死別に対応する人間のこの心の動きが、ペットの場合だけ異なるもの、ユニークなもの、と言ってしまうのは、とてもおかしなことなのです。

死別を警戒しすぎる気持ち

 もう一つ、とても気になる言葉が、時々このペット・ロス問題に対して発せられているようです。それは「あまりのめり込んでかわいがっているから...」、「適度な距離をおいた方が...」という類のものです。私達が生活をともにしている動物達と、あまりに強い絆を結びすぎるとあとが大変、ということなのでしょうが、これもとてもおかしな考え方です。思いっきり愛しているからこそ思いっきり悲しいのですが、しかし、思いっきり愛していたという気持ちがあるからこそ、本当の意味で悔いを残すことなく、悲しみながらも立ち直れるのではないでしょうか。病気であろうと、事故であろうと、たとえ死がどのような形で訪れようとも、死のその瞬間まで「この子は誰よりも愛されていたのだ」と信じることができれば、悲しみの中にも救いがあるような気がします。

理解されない悲しみ。気持ちの整理は人それぞれ

 ペット・ロスを体験した方々にとってとても辛いことの一つに、その正当な悲しみを理解してもらえぬという点があります。「たかが文鳥が死んだくらいで...」と他者に言われてしまえば、飼主はますます落込むでしょう。まだ犬や猫に関してなら世間の理解が示されるのですが、小鳥などの小動物は、正当な悲しみの対象としてはまだまだ認めてもらえないことがあるようです。

 もう一つは、悲しみの期間に関する問題です。もう1カ月、もう半年も経つのにまだ泣いている...というような批判を受けたり、あるいは、自分がおかしいのではないか、と自身で不安になってしまったりする人々もたくさんいるようです。ペット・ロスの悲しみは3カ月まで、などというマニュアルがある訳ではありません。人は皆、自らのペースで気持ちの整理をしてゆくのであり、そこには短すぎるも長すぎるもないのです。すぐに次の子を求める人は決して薄情ではなく、また、半年間も思い出し泣きをする人が弱いわけでもありません。むしろ、このようなことを心配することによって、人間は自分をより苦しめてしまうのです。自分が必要とする速度で、それぞれの心のプロセスを進めてゆけば良いのではないでしょうか。

愛するペットたちとの別れの向こうに...

 ペット・ロス——愛する動物との別れは悲しい、というよりも「痛い」と感じることすらあるでしょう。その別れは「心にささった刺のようだ」と思うかもしれません。でも、その刺は時間とともに消えてなくなる、融けてしまうものではありません。時が経つにつれその刺は丸くなり、心と融合し、やがて心は刺の分だけちょっぴり大きくなるのです。

 私達人間の心は、看取った動物の数だけ大きく、豊かになってゆく...そう考えると、ペット・ロスの悲しみもまた別の意味を持つようになると思いませんか。

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